医療法人札幌太田病院創立62周年記念特集 山口喜一関連文集
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    太田病院20年史
1963年11月10日発行 「医療法人太田病院 開院20周年記念誌」より
   「太田病院設立の発端」 (山口 喜一)

前書
 太田病院建設当時は戦争酣(たけなわ)にて、総ての事業は統制され、家屋の建設は18坪以内と制限され、更にその建築すら自由に許可されざる状態であった。従って資材は払底し建築業を営むもの少く、且つ精神病院を瘋癲(ふうてん)病院視する習慣であって、関係官吏は勿論一般人の忌避する時代に於て、敷地の選定、土地の入手、建築坪数の制限を特別に取扱って貰う運動に骨が折れたこと、土地売買契約が困難であったこと、開業の許可をとるのに容易でなかったこと、資材の蒐集が困難であったこと等、今日の時代に於て想像もなし得ざる状態の下に、よく是等の困難に打ち捷ち、札幌市内に於ける私立精神病院第一号を実現し得たることは、関係官吏の反省と同情者各位の熱心なる御尽力の賜であって深く感謝の意を表する次第であります。


昭和17年5月29日
予等夫妻は展墓のため帰省の途次秋田市牛島の秋田脳病院に寄り太田院長方に泊る。院長の話に福島市神岡病院太宰多計司君の経営する福島脳病院を他に譲渡したし、引受けくれずやとの話あるが如何にすべきやとの話あり相談の結果山口の帰途院長と共に実地を視察しその上にて相談決定することとした。

6月14日
予等夫妻は郷里会津を訪問し、帰途福島駅にて太田院長と落ち合い3人にて飯坂の旅館に投宿す。

同月15日
3人にて朝、福島市に行き福島病院を訪れ太宰多計司院長と面会、院長の経営する福島脳病院を視察す。同病院は市の郊外約二里の所に在り丘上松林の中に沼あり風景絶佳病院の内外を視察し信夫の里を視て福島に帰り飯坂温泉に宿る。

同月16日
3人にて飯坂を発し夕刻秋田駅に着く。

同月17日
院長夫妻と予等夫妻と福島の脳病院買収の可否に就て協議す、余は病院の位置は適当であるが水の便少なきが故に反対し、院長も同感なれば買収のことを断念することとし院長が若し開業したいと云うならば札幌においてすべきである。札幌は母校の存するところで何彼と便宜であり総ての点から見て有利なることを説き、院長夫妻も同意し位置の選定その他は予が尽力することとした。


太田博士開業を決意す

同月18日
院長夫人が歯の療治と皮膚病治療のため子供3人を伴れて札幌に行くこととした。

同月19日
一行6人秋田駅を出発し翌日札幌に着く。

同月28日
太田院長の実父梶川勝三郎氏夫妻来訪、太田院長札幌にて開業のことについて語る。

7月3日
院長の実兄梶川良介君来り泊る。太田君札幌開業のことを語る。

同月4日
午後、太田院長突然秋田より来り愈よ開業を決心す。

同月8日
太田院長を伴れて藪合名会社に社長藪務君を訪問、藪君は院長に開業を勧めてくれ、北大の石橋教授も亦同感なので太田院長もその気になり太田君と共に山鼻方面にて2,3心当たりの建物を物色した。

同月9日
太田一家は秋田に帰った。


位置の選定

同月10日
藪合名会社に藪社長を訪い脳病院建設について尽力を乞うた。

同月14日
藪務君が病院建設の相談に見えた。

同月15日
午後3時頃家内と共に琴似に行き結核療養所の附近の候補地を物色す。(現在の太田病院の所らしい)リンゴ畑のみにて、所によりては石塊多く不適当と認め同町の山田勝伴君を訪い、同君の案内にて同君処有の畑地を視察す。坪数の少いのと価格の点に決心つかず更に佐藤清君を訪う。今の山手線より数町山際の所に、相当大きな土地あれども当時にありては交通不便と思い、此地も決心つかずして帰る。

同月16日
小樽の梶川勝三郎氏に来札を乞い太田病院敷地選定のことを話し共に藪合名会社に藪務君を訪うて土地物色を依頼し電車にて元の白石遊郭に行き売屋を視、東札幌駅より電車に乗りて車中より上白石附近を視察し、苗穂駅に下車、又電車にて西19丁目に行きバスにて琴似着。再び山田勝伴君の畑地と佐藤清君の山手の土地を視察す。

同月17日
土地選定の模様を秋田の太田院長に報告す。午後桑園方面に行き土地物色をなす。この頃旧北海タイムス社庶務部々員河野庄八君に尽力を依頼し土地選定並に警察方面に運動を依頼す。

同月18日
小樽の梶川勝三郎氏来訪、土地物色をなさんとしたが雨のため中止。夕刻迄応接間において相談す。午後北大精神科に石橋教授を訪い太田の開業について語る。教授は太田君が一度相談に来てくれればよいとのことにてその旨秋田の太田君に通告す。

同月21日
藪合名会社に藪務君を訪問して太田君の開業について相談した。

同月23日
午後旧北海タイムス社に行き政治経済部長山田稔君に面会し太田君開業の計画を話し尽力を乞うた。

同月26日
札幌神社側の湯川智賢君を訪ね土地選定を依頼す。

同月27日
北海タイムス社の山田稔君から電話が来た。(道庁の衛生部長に訊ねたら脳病院ならば開業を許可すると言明した)とのこと。早速秋田の太田君に通告した。

同月29日
旧北海タイムス社に行き山田君に会い、太田病院建築につき道庁の衛生部長と、建築部長が許可してくれるか否やを訊ねたら、両人共に許可する方針だとのことであった。

同月31日
午前、旧タイムス社員河野順一君を誘うて脳病院敷地選定のため、桑園一帯の空地を視、更に北12条西10丁目あたりの元炭鉱汽船会社技師時友作君を訪い、同君の案内にて同地一帯を視察す。

8月4日
河野庄八君来訪、家内と3人にて北7条西21丁目に売ってもよいという畑地を見たが将来発展の余地の少いのと、低地で湿っているので見合せた。それから市内に帰り、元札幌温泉街道の空地の売物を見た。人家稠密の地で、将来土地を拡張するの余地なきを懸察した。(この頃防空演習が盛んであった)

同月13日
北大精神科に石橋教授を訪問して太田君が札幌で開業することについて意見を問うた。
石橋教授曰く脳病院がなくて困っておる。太田君が開業したら患者は北大から送ってやる何も心配はない。開業しなさい云々。
この言葉を聞いて余の意は、益々強固となった。

同月14日
朝食後家内と共に円山の河野庄八君方に行き同君を伴い三浦吉次君という人の案内にて2ヶ所の病院敷地を視、更に琴似街道の例の候補地を視、北5条に廻りて帰宅す。
(琴似街道の候補地とは札幌琴似間今の舗装道路の北側で札幌琴似の境界の川を境として南北に伸びた長方形の畑地だ。「この畑地を希望していた」)
「(三浦吉次君の案内した土地の2ヶ所が何処の土地であったか記憶がない。多分札幌温泉街道の土地と北7条西21丁目の畑地なるべきか)」

同月16日
秋田の太田君に土地選定の報告書を送った。

同月17日
午後藪合名会社に藪務君を訪問し土地物色の経過を報告し北海タイムス社に行き山田稔君に面会し今までに物色した各候補地を道庁にて許可してくれるか否やにつき衛生課長に聞き合わせてくれるよう依頼す。

同月18日
家内と共に豊平河畔の堤防敷地を南26条まで行きその附近の山田稔君宅を訪いお礼の挨拶をし、且つ土地の物色をした。

同月19日
午後北海タイムス社に行き河野庄八君と山田君を訪い、更に藪合名会社氏社長を訪い土地選定につき報告し夜になったが原保君を訪い、道庁労政課に行き病院建築出願手続の調査を依頼す。

同月20日
秋田の太田君に病院敷地選定並に出願手続について長文の書面を認めて送る。午後北海タイムス社に行き河野庄八君に会い札幌警察署衛生課に行きて出願手続の調査を依頼す。

同月21日
朝、河野庄八君来訪、札幌警察署の病院建築に対し好意的態度なることを予に報告す。「午後小樽の梶川良介君来訪したれば土地選定の経過を報告し明日父君の勝三郎さんの来札の伝言を依頼す」

同月22日
小樽の梶川勝三郎翁来訪、午後交通社の馬車を雇い梶川翁と共に円山より琴似に行き病院敷地を視察す。
(円山の土地は今の向陵中学校附近の水田にて琴似とあるは現在の太田病院のある所。)

同月23日
午後7時過ぎ太田君来札。

同月24日
予の報告を聞き太田君は午後小樽に行った。

同月25日
午前10時過ぎ太田君小樽から帰る。太田君は北大精神科に行き石橋教授を訪問し夕刻旭川に行き相川病院を視察することにした。

同月26日
昼頃太田君旭川から帰札、一緒に琴似に行き(今の太田病院の位置の林檎畑)帰途12軒通りに下車(前記の琴似との堺川ある畑)北7条通りを旧二中裏に出て(前記今の朝市場の東北側の低地)電車で山鼻西線を南9条に行く西23丁目に曲りて病院敷地候補地を数ヶ所視察し河野庄八君を訪ねて懇談した。夜、原保君に来訪を求め晩餐を共にしながら相談の結果、候補地即ち北7条西23丁目あたりが適当であろうということになった。(今の朝市の東北方の土地)

同月27日
太田院長と共に中島遊園地に藪務君を訪問し病院創設の件につき尽力を依頼した。「河野君と山田政経部長に土産物を贈った」太田院長は北大精神科に石橋教授を訪問した。午後河野庄八君来訪、病院建築について打合せた。「夜料亭東京庵に宴を催す。梶川良介、山田稔、藪務、中藪貢の諸君を招く」

同月28日
朝、太田院長、梶川良介氏と2人で北7条西23丁目の病院敷地候補を視「視察し適当地とゆうていた」それから太田院長と余と2人で札幌に建設する脳病院の建設予算について協議し午後に及んだ。午後9時過ぎ太田院長秋田に向け出発。

同月31日
藪務君来訪、太田病院設立について協議す。(この頃毎日防空演習をなす)

9月5日
藪合名会社に務君を訪う。

同月14日
家内と共に河野庄八君に案内を乞い、円山に病院敷地候補地を視察す。午後敷地視察の経過を詳細に記載し秋田の太田院長に報告す。

同月15日
家内と共に豊平町2条3丁目の貸医院と帖札せる長村医院を調査す。夜に入り旧北海タイムス社電気主任鳴海彦一君に来訪を乞いてこれより建築せんとする太田病院の電気設備の経費について調査を依頼す。

同月16日
午後1時北大精神科に石橋精神科教授を訪い太田病院建設敷地選定についてその後の経過を報す。

同月18日
小樽の梶川勝三郎翁来宅、次で藪君並に北大精神科教授石橋俊実氏また来る河野庄八君と三浦吉治君に案内を乞い自動車にて円山の候補地を視察す。その結果一同最高の適地と認め帰り直に秋田の太田院長に報告す。
(この土地は8月14日記載の備考欄に書いたのと或は齟齬するかも知れないがこの日の調査したところは札幌神社参宮道路即ち北1条の舗装道路第二鳥居より数丁手前を北側に数丁隔てたところの水田が適当地であるように思はれた。「今の向陵中学の南側附近である」

同月19日
河野庄八君来訪、病院敷地の面積について詳細報告あり直に秋田、小樽、石橋教授に通告す。藪務氏来訪、推薦文を草す。

同月21日
河野庄八君来訪、病院敷地について相談す。

同月23日
朝、河野庄八君来訪、病院敷地について相談す。

同月25日
午後藪合名会社に行き藪務君に病院敷地選定の報告をなす。午後東京の日本新聞会塚村課長より電報来る。「急用あり明朝電話す」と。

同月26日
朝、約束通り塚村氏から電話が来た。「東京の財団法人日本海事振興会で日刊新聞を発行する海事振興会理事兼社長として赴任してくれずや」とのことであった。「予は熟慮して返事す」と返事し直に旧北海タイムス社に行き調査部にて日本海事振興会の性格を調べ、更に藪務君と佐久間君に来訪を求め上京すべきや否やを相談したるに両君共に赴任を慫慂した。

同月29日
午後定山渓に行き定山園の宿泊中の天塩鉄道株式会社々長の大西一男君に面会、上京赴任すべきやを相談したるに国策の為なれば上京に賛成すとの言葉であった。(大西君は余の親友である)

同月29日
更に東京の日本新聞界理事前田潔君より電報来る。「戦時海運の機関紙である責任を以ってお勤めする国家のためお引受けを願う」と。家族と相談の結果、戦時海軍界発展のためなればその要求に応ずることとした。

10月3日
藪合名会社に行き藪社長を訪い、病院敷地選定並に建設について万事を同君に依頼し午後9時過ぎの汽車にて上京す。


備考
病院敷地選定についての余の日誌は10月3日を以て終っている。然し(一)警察署に河野庄八君と署長と係員等数名の吏員に面会、病院建設を強要したこと、(二)大通西5丁目菊地工業所に菊地氏を訪問し工事を依頼したこと、(三)敷地は結局今の太田病院である林檎畑に決定したこと、敷地を太田院長は3反歩あれば良いというのを余が1町歩にしたこと、病院建坪の平面図を作成したこと等で大体のことは決定した。余が上京してから藪君と家内や厳や河野庄八君の手によって事務は進められた。敷地は藪君の知人が土地の所有者であったのを農地から解放させて格安に売らせたこと(前掲の林檎畑)この為に藪君が警察に呼ばれたりなどして非常に迷惑をかけたことなど恐縮の至りである。


結び
(一) 山口は10月3日に上京して日本海事振興会理事並に日本海事新聞社々長とし「工事契約は河野庄八君の手で菊地と契約した。」

昭和18年
2月1日
札幌帰着夜、藪務、佐久間安春、河野庄八、梶川良介の諸君を招き晩餐を饗し太田病院建築につき御礼を述べ更に尽力を頼んだ。

同月4日
北大医学部精神科に石橋教授を訪い太田病院開業につきお世話になった御礼を述べた。

同月8日
河野庄八君来訪、共に札幌警察署に行き太田病院開業に関し特別に世話になったので長谷部署長、大橋衛生主任、野口、黒田、北喜多の係員諸君にお礼の挨拶をした。

同月13日
札幌警察署の衛生主任野口氏来訪、太田病院建築についての協議の経過を余に語る。

同月14日
山口上京

2月
太田院長の家族は秋田を去って予の宅に寄寓した。

3月
太田院長は秋田脳病院長を辞して秋田を去り札幌の余の家に寄寓した。

6月6日
琴似の太田院長から東京の山口家に電報が来た。「琴似の脳病院の上棟式今日無事挙行せり」と。

7月25日
山口、東京より帰札。8月8日、札幌に滞在。太田病院開業につき奔走す。

9月24日
山口、東京から帰札。10月4日、上京。

10月2日
藪務、佐久間安春、伊藤誠修、河野庄八の諸君をグランドホテルに招待す。2日後上京。

11月11日
工事完成。目出度く太田病院を開業した。その間山口家に於て臨時開業をした。


後書

至難中の至難な計画は斯くの如くにして完成した。
よくも斯んな困難な戦争中に出来たものだと夢のような心地がする。太田院長が「山口室」という標札を或室の入口に掲げてくれたのも微力に対する謝意からであろう。



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山口喜一の書籍
「夏枯草」
 子息山口寿一が亡くなった後に出された、潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った故人の追憶集です。
発行:1929年12月25日
著者:山口喜一

「老新聞人の思い出」
 新聞人としてその生涯を新聞にかけた山口喜一が、そのきっかけから特に思い出の深かった出来事や人物について述べている一冊です。
発行:1957年6月5日
著者:山口喜一

本ホームページは山口喜一(1881-1969)が残した文献や関連文集の内容を掲載しているため、記載されている情報は当時ものです。

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琴似で初の正月を迎えて

空襲に備えて白壁を黒くした頃の太田病院
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