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    山口喜一本人の筆跡
1957年6月5日発行 山口喜一著 「老新聞人の思い出」より
   囲碁清談
山口喜一が生涯の趣味としていた囲碁についてのエピソードと新聞を通して棋道を奨励し、北海道での発展に大きな役割を果たした経緯が載せられています。

 昭和十七年十二月十七日午後一時、芝公園の環水桜で、雑誌「空と海社」富永社長の肝入りで碁会を催した。日本棋院からは、村島六段と野山二段が出席し、ほかに大阪商船東京支店長の香春重役、拓殖協会の主事村田初段、それに私も馳せ参じた。

 当時初段であった私は六目を置いて村島六段に向かったが結局五、六目の負けとなった。六目なら大丈夫勝てると思ったが、残念ながら負けた。弁解するようであるが、当時の私は、一身上の変化が激しく、少々ノイローゼ気味もあり、コンデーションも悪かったが、この惨めな敗戦にはすっかり悲観してしまった。

 その時、村島六段は、
「山口さん、そう悲観なさらなくてもよいでしょう。日本には貴方よりも弱い初段がありますからね」
と揶揄されて苦笑したことがある。それほど弱い碁打が、碁の話をするのは、いささか気が引けるが、しかし新聞を通して棋道を奨励した一人であるということは認めて頂けるかも知れない。

 今でもそうであるが、どの新聞でも、碁や将棋には相当に金をかけたものである。読売新聞が一時多くの読者を獲得したのは、囲碁欄に金を惜しまず、呉清源を薬籠中のものにしたからだといわれるが、北海タイムス社も囲碁欄を拡張するために、札幌の沢田五段に協って、先ず道樺強豪対抗戦を計画した。それには日本棋院の援助を得なければならないので昭和十一年二月、赤坂の料亭宇佐美に棋院の先生方を招待した。

 棋院からは、瀬越、橋本(当時五段)の両先生と八幡幹事、それに報知新聞の観戦記者関星月君が参加した。タイムス社からは沢田五段と柏岡常務ほか支社員が出席した。そして、日本棋院は出来るだけ応援すること、当方の世話役は沢田五段にお願いすることなどを決めて、いよいよ本道樺太の対抗棋戦を開始することになった。

 この対抗戦は、樺太では大泊、豊原、真岡の三カ所、道内では函館、小樽、旭川、帯広、釧路、岩見沢、網走、野付牛、室蘭の九カ所で、その土地の強豪対抗戦を華々しくやった。野付牛では網走の水牧茂一郎さんと、野付牛の姫野さんの対戦ということになった。姫野さんは勤め人で自由に旅行が出来ないので、水牧さんに野付牛まで出かけて貰ったが、先輩に出て来いとは失礼千万だと、なかなか承知してくれないのを無理にお願いするという具合で、沢田世話役もこの対抗戦には並々ならぬ苦労をしたわけである。

 それから昭和十三年に「入段を目ざして」という棋戦を試みた。この碁戦で初段になった人は、北海道と樺太で九人であったが、今では、この人たちの大部分は四段から五段になっていることと思う。この時代の札幌の碁打ちは、福山米吉三段と北大林学科教授の陰山純介三段を筆頭に北水専務の桜井久我治、北大工学部長の古籐猛哉、道庁土木部勅任技師の伊藤長右衛門、札幌市助役の増田勲、北大の佐藤総長などが、主なる顔ぶれであった。

 正確な数は調べないとわからないが、当時の有段者は、全道で数十名程度であったと思う。

 現在では二千名以上といわれるから、北海道の囲碁界も随分発展したものだ。ここで付け加えておきたいことは、この当時、本道から二人の棋士を日本棋院に送ったことである。一人は札幌の鈴木五良君で、もう一人は旭川の沼倉忍君である。これはタイムス社と沢田五段の幹旋であるが、鈴木五良は鈴木為次郎先生の門下となって、現在五段となって前途を嘱望されている。沼倉君は村島先生の弟子となって二段になったが、惜しいことにマニラで戦死してしまった。

 本道の棋道は、その後日を逐うて盛んになって来たので、昭和二十年十二月八日に日本棋院札幌支部を結成した。結成式は札幌ニューグランドで行われ、日本棋院から藤沢庫之助八段、鈴木五良四段を迎えて、席上両氏の対局が行われた。来会者も百余名という盛況で札幌支部はかくして花々しい第一歩を踏み出したのであった。そして初代支部長には不肖私が推されることになった。二代目支部長は酒屋の長部忠寿、三代目支部長は札幌信用組合専務理事の斉藤秀雄、四代目即ち現在の支部長は産業会館理事長の山田良秀三段である。

 その後、日本棋院では札幌に北海道本部を置くことになり、昭和三十一年一月一日、日本棋院北海道本部の看板を掲げるに至った。本部長は初段の田中敏文知事、理事長は水牧茂一郎五段という堂々たる顔触れで、審査会のメンバーは札幌の沢田宇従五段、大野正由五段、函館の沼倉清人五段、旭川の杉本学五段、早勢勝美五段、岩見沢の窪田正一五段の六審査員である。

 一昨年の秋、日本棋院の創立三十周年記念会が催された。私は初代支部長というわけで表彰状を頂戴し、その上二段の免状をも頂いて恐縮した。過去を振り返って見ると、タイムス社が道樺棋道奨励のために努力したことは、本道棋界の発展に大きな役割を果たしたものであると言ってよいと思う。

 もちろん私の初段は功労初段であり、二段はお情け二段であると自分自身に言いきかしている次第である。現在札幌の知名人では、拓銀の広瀬頭取が二段、松下副頭取も中原重役も二段である。島本道銀頭取も高田市長も共に仲良く初段であるが、特に高田市長は市長カップを出して棋道の奨励に力瘤を入れている。原田市助役が三段で高等検察庁の日下検事は二段、三井信託の中山佑支店長は、五段というから凄い。道庁では田中知事を先頭に内海副知事それに堀開発企画本部長が、ともに初段、文書統計課の渡辺恒義係長は五段、道新の桜井局長は初段、それから炭鉱汽船の直塚一郎総務部次長の二段、道の能木善七監査委員、同若林次郎人事委員の初段も碁打ち仲間によく知られている。このほか全道的に眺めると、知名人の有段者は相当な数に上るであろうが、ここではこの程度で勘弁して頂くことにする。


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山口喜一の書籍
「夏枯草」
 子息山口寿一が亡くなった後に出された、潔く晩春の頃、夏枯草の白い花のように枯れて行った故人の追憶集です。
発行:1929年12月25日
著者:山口喜一


「老新聞人の思い出」
 新聞人としてその生涯を新聞にかけた山口喜一が、そのきっかけから特に思い出の深かった出来事や人物について述べている一冊です。
発行:1957年6月5日
著者:山口喜一


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